「拷問に奪われたいのち、退廃と放蕩のあそびに費やされたいのち。されど、国の滅びは見ずに済んだいのち」1933(昭和8)年 1934(昭和9)年【宝泉薫】
【連載:死の百年史1921-2020】第12回(作家・宝泉薫)
■1934(昭和9)年
芸術の勝利か人間の敗北か 竹久夢二(享年49) 桂春団治(享年56)
美人画といわれて、竹久夢二を想い起こす人は多いだろう。彼はそれだけでなく、デザイナーとしても活躍し、また、その詩にメロディーがつけられた『宵待草』は大正を代表する大ヒット曲となった。
しかし、元号が昭和に替わった頃から人気が低落。不況と、相次ぐ女性スキャンダルが原因だった。そこで、群馬の伊香保に隠棲しつつ「榛名山美術研究所」を構想して、捲土重来を期すことに。まずは念願の欧米視察旅行へと旅立ったが、研究所を建てるための資金を使い果たし、かわりに結核という病まで得てしまった。帰国した翌年、49歳で死去することになる。
そんな夢二を「頽廃の画家」と呼んだのは、川端康成だ。むろん、褒め言葉である。川端いわく「頽廃は神に通じる逆道のようであるけれども、実はむしろ早道」なのだから。それゆえ、こんな奇蹟のようなことも起きた。川端が夢二の家でその愛する女性(お葉あたりだろうか)を目撃したときの感想だ。
「その姿が全く夢二氏の絵そのままなので、私は自分の眼を疑った。やがて立ち上って来て、玄関の障子につかまりながら見送った。その立居振舞、一挙手一投足が、夢二氏の絵から抜け出したとは、このことなので、私は不思議ともなんとも言葉を失ったほどだった。(略)夢二氏が女の体に自分の絵を完全に描いたのである。芸術の勝利であろうが、またなにかへの敗北のようにも感じられる」
伝わりにくいかもしれないが、夢二の芸術の本質を言い当てている気がする。
また、夢二は自らの最期についてこんな希望も語った。
「私は泣きながら生まれた。その時、みんなは笑った。死ぬ時には私、笑っていたいと思う。そして、みんなを泣かせてやりたい」
気障にも思える美学へのこだわりが、いかにもという印象だ。
夢二が亡くなった翌月には、落語家の初代桂春団治が56年の人生に幕を下ろした。こちらはさしづめ「放蕩の芸人」だろうか。硬軟自在の芸風と、女性関係や借金、大法螺といったお騒がせぶりで人気を博し、破滅型の天才として伝説化された。都はるみ&岡千秋のヒット曲『浪花恋しぐれ』には「芸のためなら女房も泣かす」と歌われ、野球選手の川藤幸三のように豪快な酒好きというイメージだけで「球界の春団治」と呼ばれた人もいる。
本物のフォロワーズは、横山やすしや藤山寛美、やしきたかじんあたりだろう。ただ、春団治の死因は胃ガンで、吉本興業を追われたあげく、アル中で死んだ横山ほどの悲惨な晩年ではなかった。
さて、頽廃も放蕩も、そこそこ裕福な世の中でこそ可能なあそびだ。日本がこのあと、それどころではない状況に突き進んでいくのを見ずに済んだふたりは、案外幸せ者だったのかもしれない。
文:宝泉薫(作家・芸能評論家)
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